ももかめ日記

クサガメしゅうこ🌼さん♀。クロクサもみじ🍁♂。マレーハコガメさくら🌸♂の飼育日誌と趣味のバド🏸。その他気まぐれに思いついた事を綴っていきます。よろしくお願いします。

毎日母の事を思い出しています。

毎日、亡くなった母の事を思い出します。

故意ではなく、自然です。

私はあと10年は頑張りたい。

父が急逝したあと、母はこう言っていました。


風呂に入ってる時

車の運転してる時

夜ウォーキングしてる時


ほっとする時ふと思い出します。


介護施設で働いている時、夜中に

おかーちゃぁーん

おかーちゃぁーん


と何度もお母さんを呼ぶ利用者のおばあちゃんがいました。


当時まだ20代だった私はいくつになっても母親というのは、忘れられない存在なのだなと感じました。


あなた何歳?まだ若いわねー。

じゃご両親健在なのね。羨ましいわ。

とも言われその事を今でも覚えています。

両親が健在って確かに羨ましい。

いなくなってしまった今だからこそ、その時のおばあちゃんの切なさや寂しさが胸に沁みます。


まだ子供だった頃。何も考えずに遊んでいた日々。買い物についていって、お菓子を買ってもらった事。夏になると缶詰のみかん入りのゼリーを作ってくれた事。レモンをしぼったレモン水が美味しかったな。夜中に金縛りにあって怖くてお母さんの布団に逃げ込んだ事。暖かくてすぐに眠れたんだよね。


色んな事がどんどん蘇る。

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母がうちの庭に植えたモクレンが今年も生えてきた

タネが飛んでこんな所から生えている




なぜ思い出すのか。。

そういう思い出と共に、なぜ酒もタバコも吸わなかった母が呼吸苦を伴う病気になったのか。

あの時オペをなぜしたのだろうとかの

後悔や無念さ、ぶつけようのない気持ちです。


聞いた事がないような珍しい病気でオペが最善の策だったのか。


蓋を開けてみないとわかりませんでした。


私は直感でオペには反対しました。

今でも苦しく体力がない状態で大きなオペをしたらどうなるのか、なんとなく予想ができたからです。


兄は母の意見を尊重し賛成していたし

母は治したい一心で決意しました。

オペさえすれば治ると信じていた。

でも病気が病気で非常に厄介。

悪いものを取ったからってその後のリスクが完全に減るわけではない。


私はもやもやしたまま受け流されました。


先生もスッキリ取って、お母様も年齢的にまだ若いしあと7.8年は長く生きられるように。みたいな事を言ってた。


先生にそう言われたら、希望持つよね?

じゃあみたいな感じで‥


でも結果的にそのオペがきっかけでADLは大きく下がり、声がかすれる後遺症とものがむせる嚥下困難で最後まで苦しんだ。


術後、まだ全快もしてなかったのに無理矢理退院させられ、1週間後には病院に舞い戻った。

また来たの?と看護師に言われた。

苦しさを訴えていた。

肺に水がペットボトル1本分溜まっていた。

また入院になった。


また来たの?じゃねーよ。

来たくなかったけど、仕方なく来たんだよ。


看護師の何気ないひとことに傷ついた母。


オペの後遺症だと言われた。


そこから長く苦しい入院生活に突入した。

まだコロナ前だったから、面会できたからまだ少しはよかった。この時は。


母は

治ると信じて受けたのにこんな身体になってしまったと

泣いた。


今から考えても、治る見込みなんてなかったし、それでも先生がそういうのなら大丈夫かと思っていたけど


いっそのこと余命宣告してくれればよかったのかな、、みたいな事まで考える。


親戚の人がオペをしかなったらもっと早くダメになっていたかもと言っていたが、それも一理ある。


でも、嚥下困難、声がかすれる障害、肺に水が溜まる苦しさはなかったと思う。


結果論だけどオペしなかったら、別の何かがあったはずだけど‥。


でも少なくともまともに喋れたし、食べることができたと思う。


自分の意志が伝わらない苦しさとものがうまく食べられないって相当の苦しみ。


本来お喋りで友達が多かった母から奪われた声。


オペをするリスクとしてそのような事に同意しなければならなかったのだが、、


なんとなくの道筋を最後は緩和ケアなのかなと思っていた私。


おかしいのはオペした病院でオペしたら、はいさようならだった事。

オペした後って、その後定期的に受診して経過をみていくよね?


それがなかった事。

だから受診するのにどこへ行けばいいのか困難だった。

もう出来ることがないみたいな事まで言われたし、そんな事言われてまで、オペした病院へ行こうと思う??


外科だったから???

よく分からない。

医療を信じる事ができなくなった。


肺は問題ないです。なんて言われてたけど、最期には全く機能していない状態になっていた。


それが転移だったのか、なんだったのか、全くわからないまま


オペの後遺症です。と言われた。


臨終で

結局ずっと笑ってくれなかった

と兄が泣いた


ずっとずっと、母から笑顔が消えた事

笑顔になってほしくて頑張ってきたけれどと


兄は泣いた


病気が判明してからさらに食欲が落ち、オペ後もまともに沢山食べられなくて

どんどん体重は落ちてたけど、最終的に

20キロ近く体重が落ち、最後は骨と皮

顔も見る影もないほどの人相になり、病というか癌というのは人相まで変えてしまうおそろしい病気だと思った。


そしてどの先生もわからずじまいの病気。首を傾げる先生たち。稀少なタイプだったから。手探りで治療してくれたんだろうけど、、、。


フサフサの髪の毛が薄くなって白髪だらけになったのもショックだった。



ホントは美容院にいってちゃんと染めてあげたかったけど、行く体力、座っていられる体力さえもなかった。


あと10年は頑張りたい。

孫の成長を楽しみにしていた母は、息子の高校生姿を見ることなく、この世を去った。


考えても考えても、答えは見つからない。時計の針も戻せない。


余命宣告されても、結果論として笑顔は取り戻せなかったかもしれない。

でも!普通に喋れたと思うし、むせずに食べられただろう。


体力もオペしなかったら残されていたかもしれない。


オペしてから、苦しんだ期間は1年2ヶ月。何が7.8年は長生きできるだ。



考えても仕方がない事を永遠に考える。

多分ずっと私は死ぬまで考え続けるだろう。


こんなはずじゃなかったと母が言っていたし。。


母が何したっていうのか。

最後にこんな罰ゲームみたいな仕打ち、なぜ受けないといけなかったのだろう。

何回、何十回と検査という名のレントゲン。3回のオペ。もう身体を傷つけるのはやめてほしい!


って言いたかったけど、言えなかった。



何個飲むの?ってくらいの薬の量。


こんなの飲んでもちっとも良くならない!って言ってた。


飲まなきゃダメな事くらいわかってるけど、、薬の仕分けをしながら考えていた。‥辛かった。


医者の世話になんてほとんどならず、元気一筋の母だったのに。



どんな最後であれ、母親がこの世からいなくなるというのはショックな事だ。


最期の病院で下着があったのに、ないと言われ着替えだからと脱がされて、オムツに病衣だけの姿だったのもショックだった。


下着がないから届けて欲しいと言われ、その日に慌てて届けたのに。着ていなかった。


看護師さん、バッグの中よくみてよ!てか、下着届けたよ?

疲れ果て呆然としていた私は、反論なんてする力がなかった。

何これ‥という現実。

私が看護師なら絶対しない!


もう死にそうだから何してもよかったの?何も訴えないから何してもよかったの?


ホスピスへの転院をしかなった私がいけなかったのかもしれない。

もっと大切に丁寧に看護してくれる病院を選ぶべきだった。


コロナで面会できなかったし、看護師さんに任せるしかなかった。


私はお世話できなかったから。


ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。


‥よく母の夢をみる。

断片的にしか覚えてないけど、、。


毎日お仏壇に線香あげられなくてごめんなさい。  


ごめんなさい。


でも毎日毎日、思い出しています。



今でもいないの、信じられないから、色々振り返って、ああやっぱりもういないんだなって事を自分に言い聞かせ、納得させています。。


色々やりたい事も、やり残した事もあったんじゃないかな

声がダメなら書けば?という選択肢も、震える手で書けなくて。

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必死で書いた文字 2020.6.13


何もかもの力が失われて。


悔しかっただろうなぁ

絶対治して元気になるって言ってたもんな‥


どうしょうもない事って人生であるんだろうけど、、切ないな‥


毎日、もういない。という現実を受け入れるために思い出しているのだろうか‥


きっと私も歳をとっても、

お母さんー!お母さんー!


って呼んでるおばあちゃんになるんだろうなぁ。。