母の一周忌。
あれからもう1年経ったのかと思うと、本当に早いものだと感じる。
遺影の母を見ると、やっぱりいないんだと痛感する。
なぜいないんだろう。
もっとやりたい事あったのに無念だっただろうな‥。
なぜあんな病気になってしまったのだろう。
特別、不摂生でもないし酒もタバコも飲まなかった。
ある人は仕事のやりすぎだと言った。
自営業だったから、定年とかなく、周りがどんどん引退し老後を過ごしているのに、自分は働いている、恥ずかしいなどと言ってたりもした。
一方で、仕事があるのはありがたい。と言い聞かせて、孫にお小遣いをあげるべく働いているんだ、とも言っていた。
でも父も母も、身体がキツくなり仕事を辞めてすぐに他界してしまった。
仕事ばかりしてかわいそうに‥とも思ったが仕事があったからよかったのかもしれない。それで生活のリズムはできていた。
そして家でゴロゴロしたり、のんびりする姿をほとんど見なかった。
常に働き、そして仕事が終われば友達との付き合いで出かけている人で、家では掃除したり片付けしたりする人だった。
だから仕事を辞めて、仕事場を片付ける時に、もう具合が悪くなり、買い取ってもらう機械を搬入してもらった後のゴタゴタした仕事場を見た時はショックだった。
一周忌には沢山の人が来てくれた。親戚も多い田舎ならでは。
コロナの関係で会食はせず、お弁当を配るスタイルにしたが、母が可愛がっていた孫たち(私にとっては甥っ子)が何も言わなくても手伝ってくれた。
こんなに大きく立派になった姿をどんなに見たかっただろう、、それを考えたら泣けてきた。
足が悪かったり、目が悪かったりした母の友達も来てくれて、どんなに会いたかっただろう、また一緒にご飯に行って、茶飲み話に花を咲かせていただろうと思うと‥涙
お母さんには本当にお世話になったんだよとしみじみと語られると、母がこの世でしてきた功績は、偉大だったと感じる。
お寺の住職が少し話しをしてくれたのだが、
人間が亡くなった時、その人がどれくらい金を持っていたか?なんて話しにはならない。金はあの世にはもってはいけなんです。どのくらいその人が、この世で徳を積んだのか。人のために役に立ったのか?なんです。
それを考えると母は、周りのみんなのために色々世話をしていたなー。
困ってる人を放っておけない人だった。
誰かの助けになる事が生きがいのような人だった。
ずっと仲良くしていたお友達の中で、1番若くて頼りにしていたのに、まさかこんなに早く逝ってしまうと思わなかった‥とも言われた。
だから自分が誰かに助けてもらわなければならなくなってしまった最期は、辛く辛くとても辛い状況であった。
姉という気質。4人兄弟の2番目。
面倒を見てもらうより、面倒見る立場の方がしっくりくる気質だった母。
私とはまるきり正反対だ。
私は末っ子だし、どちらかというと、やってもらいたい気質。
母もまさか自分がこんなに早くいくとは思ってなかったし、もっと生きたかったから、治療もリハビリも受けた。
1番仲良かった人には、電話していたようだが、うまく話せなくなってしまっていたので、相手に伝わらず、でも何か言いたかったんだと思う、何か伝えたくて伝えたくて‥と話ししてくれたが、何か?は結局分からずじまいてあったが友達には何か言いたい気持ちがとても強く感じられたという。
‥人生というのは、辛く苦しいものです。それが基本です。
悲しい事、辛い事、苦しい事、沢山あるものです。
でも苦しみがあることで人間は成長していくのです。
悲しみが多ければ多いほど、人に優しくなれるのです。
住職の話を聞いて、うんうんそうだよそうだよと頷いた。
そして命日。
あの日のことはまだ鮮明に記憶している。安らかとは言えない最期であった。まだまだ未練とかやり残した事があって、それが叶わない苦しさもあったと思う。
身辺の整理も何も出来ず、悔しさが滲み出るような‥
いくら周りがやっても、自分でやらなきゃ気が済まない性格。
でも、、お金だけは残しておけるように、私にもしもの事があったら‥と定期の事をよく口にしていた。
そのおかげでお金に関して子どもである私達が困る事はなかった。
家のローンも完済。
本当に家族のために尽くした母であった。
私はというと、生活がまるっきし激変した。仕事もバドもやめ、家に籠る日々。
こんな私を見たらガッカリするだろうし、また心配するだろうし、色々言われるんだろうな。
墓参りに行っても、返事は返ってこない。
実家に行くと、そのままになっている。
今にも台所からお茶を持って出てきそうな感じ。
最後に履いたリハビリシューズ。
杖。
コップ類。
ハンカチ。
そのままの掘りごたつ。
父がいつもの場所で寝転がり、TVを見ているようだ。
‥でも誰もいない。
2人とも、あっという間にいってしまった。
1番苦しかったのは、母の姿が変わってしまった事。ガリガリに痩せて人相まで変わって、フサフサの髪の毛が薄くなり、白髪だらけになった事。全く笑う事なく苦しい悲しい表情で、性格までおかしくなった事。
母を目視するのが辛かった。
母は母親という立場まで卒業し、子どもみたいにわがままになり、我を通した。
苦しい時、いつも包み込んでくれた母がいなくなった。
今度は自分が包み込まないといけなかったけど、私にそんな余裕はなかった。
羽を打っている時だけ、全て忘れる事ができた。だから狂ったようにバドミントンをしていた。
中毒とまでみんなにも言われるほど異常だった。
バドミントンが終わってしまうと、現実に引き戻され、とてつもなく暗くなっていた。
打ち終えた爽快感がどこかへすぐに消えていった。
落ち着くとか、ゆっくりする事ができなかった。
家にいても落ち着かなくて、誘われるままに、体育館に吸い込まれていた。
母が危篤ー‥
そんな時も私はバドミントンをしていた。
終わってスマホを見ると、病院から何回も着信があった。
薄々は分かっていた。けどコロナで面会も叶わず、、じゃあどうしたらよかったのか。。
こういうのって、全然癒えないんだろうな‥
どうしょもないという状況。
そんな事がいつまでも堂々巡りしている1年間だった。。、
ぼちぼち、実家の片付けもしないといけないが、やる気が出ない。
何度も同じ事を考えては、消えていく。
この思考の繰り返し。
まとまらない思考のまま、日々が過ぎていく。